作品は読んだことがないけれど、新聞の人生相談が興味深い。
相談者への答えには必ずしもなっていなくて、自分の心境を「相談」に寄せて「ボクの場合はこうなんだがなあ」とつぶやいているように見える。あぁ、そうも言えるのか、と読者は勝手に納得できればいいようだ。
で、7月11日はこうだった。
相談 「人とのつながりがなく、認知症が不安」
父母の仕事を継いで30年。一人でがんばってきましたが、11年前に娘夫婦の姑の問題で気が休まらず店を閉めました。
その姑が認知症で施設に入所したことで少し楽になりました。
今の家に70年以上住み、近所の人との会話はありますがなじめません。
歴史の講座に出かけますが話を聞くのみ、会話がありません。
人と人とのつながりが少なく、このまま私も認知症になったらと不安です。
77歳・女性
回答
諸般の事情があって、若い頃、わたしは、拘置所の独房に8か月ほど滞在していました。もちろんその間は、会話することなんてできません。
面会にやってくる知人と交わす数分が、会話のすべて、ろくな話もできず、「ああ、外へ出たら、思い切り、誰かとしゃべりたい!」と思ったものでした。
けれども、実際に、「外」へ出て、みんなとしゃべってみた時の感想は「意外とつまらないものだなあ」だったのでした。
もちろん、会話の楽しみはよくわかっております。けれども、どんな楽しい会話もやがて終わり、その誰かも、どこかへ去ってゆく。そして、わたしたちはひとり残されるのです。
わたしが生涯でいちばんたくさん本を読んだのは、独房で過ごした8か月でした。それは、言葉にならないほど豊かで、わたしを潤し、わたしというものを作ってくれた時間でした。 ほんとに、もう一度、独房に入りたいくらいです。そのとき、わたしは、耳を澄まして、本の著者たちと会話を交わしていたのだと思います。現実の会話と比べ、どちらが素晴らしいと思われますか。まあ、比較する必要もないのですけれど。
わたしが話をしたいと思うのは、孤独でいることのできる人、孤独の楽しみを知っている人です。あるいは、他人の話を聞くことができる人です。充実した人生の時間を生み出すために、おしゃべりというものは本当に必要なのでしょうか。 高橋源一郎
独房のところでは、笑いながら読んだ。最後の「他人の話を聞くことができる人」は含蓄に富んでいると思う。
世の中は、人の話を聞くより話すことの方が好きな人が圧倒的に多い。私もそう。
今月、私たちの「傾聴団体」は講師をお呼びして3日間講座を開いた。
参加者たちは目からうろこだったようだ。
話すことにはそれほど努力は要らないが、聴くには相当の努力がいるから。
最後におかしかったのは講師の方の言葉。
「ひとの話を聞けないのは、お医者さんと学校の先生です」とはすごい皮肉だった。